脱正解信仰
こちらのブログではこれまでに何度もこの3つの軸
「軸その① 英語より日本語が大事(第一言語を日本語とする場合)」
「軸その② 子どものことをよーく見ることが大事☆」
「軸その③ 「おうち英語」は「育児」の中にある☆」
についてふれてきましたが、こんなことを書いた私の、全然「子ども自身をみてなかった時代」について書いてみたいと思います。
とにかくなにもかもがはじめての子育て。1人目の子を妊娠してからしばらく私が時間を費やしたことは、ネットでの「正解探し」でした。
大切な大切な子どもに何を与えてあげられるだろう。。
間違えて後悔しないために、子どもにさせるといいと言われていることをできるかぎりしてあげたい。。
そんなふうに思っていました。そして子どもがまだ意思表示をあまりしない赤ちゃんのころや、自分の思い通りに進められる時期は、本当に大切なことに何も気づかず、その「正解」に見えるものから外れないようにしていました。
しかし次第に自我が芽生えてくると、全然その「正解」通りにいかなくなりました。
たとえば他の子が大好きなぬりえをさせたいと思っても、まったくぬりえに興味がない我が子は線を一本ひいて終わり。
手を使った遊びをさせたいと思っておりがみで遊ぼうとしても手先が不器用な我が子はイライラしてすぐに投げ出す。
幼稚園の頃から机に座る習慣をつけておこう!と書かれているのをみて、1日数分でも毎日座らせようとプリントを机に用意してトライしてみたりしても、はじめは目新しいことで興味を持ってくれてもすぐに嫌がるようになり、お互い苦痛になったり。
他の子がうまくいっているように見えてしまうブログなどをみてしまうと、うまく進められていない自分にイライラしてしまったり、必要以上に悩んだり。。。
きっと子どもも苦しかったと思うし、何よりどんどん窮屈になっていくことに自分自身耐えられなくなりました。
そしてある時吹っ切れました。
あるとき突然吹っ切れた私は、
自分は自分だ!自分に合ってないことはやめよう!
子どもだって、全員に同じ方法が当てはまるはずがない!
世間一般の「正解」にとらわれるのではなく、失敗もたくさんしながら私たちにあったものをみつけていこう!
そう発想の転換をしたことで、その瞬間から心がふっと軽くなりました。
それからは、子どもから出てくる言動を大切にして、反応をみながら、子どもに合ったもの、合った取り入れ方を手探りで探していきました。
当然失敗もたくさんありましたが、違っていたからこそ知れること、気づくことがあり、失敗したからこそもっと子どものことを深く考えることができるようになった気がします。
前の記事の言葉をみると、
○○させよう。
与えてあげよう。
そんな上から目線で自分は考えていたことがすごくわかります。
○○の力をつけさせるために、、という気持ちがあると、子どもは敏感に察知します。そして本来遊びであるはずのことさえ、やらされているものに変わってしまったり、本当は好きだったかもしれないことも好きでなくしてしまうこともあると思います。
あそびも決められたやり方でなくてもいい。
なにかを学ぶ目的がない遊びでもいい。
その枠を外すことで、苦手なことも多い我が子のかけがえのない個性に気がつくことができました。
それと同時に、もしかしたらその大事なことに私は気づけなかったかもしれない。気づかせてくれた子どもに「ありがとう」という気持ちが芽生えるようになりました。
これからも成長とともにその都度悩みはあると思います。でも、その時々で考えたり、悩んだりを繰り返して、いろんな気づきを与えてもらい、子どもに教えられながらいっしょに成長していく親の姿をみせていけたらいいなと思っています。