「子どもをよく見ましょう」
育児・おうち英語界隈でもよく見かけるし、私もよく言ってますよね。
でも、そういう私が常に完璧にできているわけではないです。
#おうち英語ならSG のリサです^^
特に、長女が小さかったころは、今、振り返れば、一切できてなかったと思います。
なんせ、もともと母性本能がマイナス100レベル並み。
さらに、「子どもはキライ」と公言してたほど子どもギライだった私。
「育児」というのは、はっきりいって義務感でしかなく、「楽しさ」なんて全く見いだせない日々でした。
そんな私だったので
「子どもに寄り添う」
「子どもの事をよくみる」
「子どもの目線に立つ」
なーんてことは、考えもしなかったです。
それに、そのころにそういう言葉だけのアドバイスをもらったとしても、当時の私にはキャパと経験が足りなさ過ぎて、それが本当に意味する事なんて分からなかっただろうな・・・。
聞き分けがよくて、ごく普通レベルになんでもこなせるタイプだった、いわゆる「親にとってやりやすい」タイプだった長女。
長女が小さいころは、いろんなワークをさせてました。
今の私だけを知る人は「信じられない」と口をそろえて言われますが(笑)
ベタにこういうくもんのワークとかも結構したし~
ハイレベシリーズとかもやったかな?
あと、「おうちそろばん」でコチラからはじめて~
さらにプリントアウトした大量のフリー問題をコツコツ。
小学校に入ってからは、こういう問題集とか~
ピアノも習っていたので、毎日、ピッタリ横についてピアノの練習した後、ワークをみっちり・・・みたいな。
今、読み返しただけで疲れる(笑)
長女が嫌がってても、「毎日ちゃんとやらないとダメでしょ!!」と怒ってルーティーンとして絶対にやらせてたし、なんなら「終わるまでそこから動くな!!!」ぐらいの勢いでしたね。
私は普段からものすごく「効率の良さ」を考えて行動するタイプ。
毎日無駄な事よりワークに時間使う方が「効率」いい。
漢字なども先に覚えておいた方が「効率」いい。
算数もやり方おぼえちゃえば「効率」いいし。
「子どもが今、したい事」じゃなくて、「私が今、子どもがした方が「効率いい」と思えるもの」
が優先でした。
だって、子どもが今したい事なんて、見ようともしてなかったから、何がしたいのか全く見えてませんでした。
今、自分で書いてて、過去の自分のあまりのひどさに衝撃・・・・。
わかってた事だけど、ほんとにヒドイな、私。
長女には本当に申し訳ない事したなと思う。
その長女へしてきたひどい育児の罪悪感はいつまでたっても消えません。
でも、その罪悪感が、SGの「英語より育児、育児より人」というゆずれない軸の部分に確実に影響してると思う。
そして、それから約10年。
現在、長女が毎日ワークなどをしていた頃の年齢に、次女がなりましたが・・・・。
本当になんにもしてない!!!!(笑)
習い事もゼロ。 お勉強もゼロ。
年長さんだけど、あんまり文字などが得意ではないらしく、ひらがなも数個しか書けないし、アルファベットも全部はアヤシイ。
子どものする事って、大人にとって「無意味」に思えたり、「非効率」だとわかっていたり、「優先順位が低い」と思える事ばっかりなんですよね~。
とある日、次女ジャスミンがずーーーーーっと家の中を汽車のマネをしながら歩き回ってたんですよね。
チャガチャガチュッチューーーーーー!
ほんとに、何回も何回も往復してて・・・・
なにしてんの・・・・・・・?
と思いましたけど、乗客の役をして一緒に遊んで、笑い転げました。
とある日、ペイントがしたい!と言って、色を混ぜるんだけど。
ちょうど程よい色にならなくて、どんどん混ぜる絵具が増えていったり、あれもこれもと描き続けて。
結局、出来上がったのは、一面きったない色で塗りたくられただけの破れた紙。
もうちょういキレイな色合いは
ないんかい・・・・・・・?
と思いましたけど、「たくさんの色を重ねて思う存分描けたね~!!」と心底思えました。
とある日、明らかに入りきらない大きいおもちゃを、一番小さいサイズのリュックサックに入れて持っていくんだ!ときかなくて。
入れようと試みては入らず出し、また入れようとしては入らず出しを延々と続けてたり。
デカいリュックサック、
すぐ横にあるやろ・・・・・・・?
と思いましたけど、
とだけ言ったら、
どうしてもこのリュックがいいから、
入るだけ入れて、あとは手で持つわ
と自分で納得しました。
長女の時なら・・・・
電車になりきる長女にむかって「そんな事してるヒマあったら、ワークの1枚でもしたら?」って言ってたと思う。
きったない絵をみて「もうちょっとピンクとか使ったら?」って言ってたと思う。
詰めたり出したりするのをみて「全部出して、こっちの大きいリュックに入れたら済むやん!」って言ってたと思う。
でも、それって、「大人である私が判断している、よりよいであろう」と思えることであって、決して子どもがその時にした方がよかった事じゃなかったな。
もちろん、たとえば、ビルから飛び降りたらどうなるかな?とか、大けが以上の危険を伴うような事は実際やらせるわけにいかないし、人に迷惑がかかることも「子どもがしたいから」といって放置するのはダメだと思う。
でも、子どもが小さい時にさせるべきことは、それがいかに非効率で、優先しなくていいもので、無意味なものに見えても、自分で考えて、これをこうしたらどうなるかな?って思える事を実際に何度でもやってみれるようにする事なのかも。
いい意味で放置する(見守る)ことと、そうしたら見えてくる、子どもの一見無意味なように見える言動でも、こどもが何か理由があってしてるんだろうなって理解すること、そこからどうしたらいいのかなって考える事が大事なんじゃないかな~。
「子どもを見る」っていろんな意味があると思うけど、それが、「子どもを見る」って事であり、その上で、一緒に遊んだり、一緒に考えたり、一緒に笑ったりすることが、「子どもに寄り添う」って事でもあり、「子どもの目線に立つ」って事なんじゃないかな?と私は思います。